恵みあふれる聖書の世界

恵みに満ちた聖書のことばを味わうひととき。城山キリスト教会(牧師・関根弘興)がご案内します。

主よ

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  これを聞いた人々はみな、心を一つにして、
  神に向かい、声を上げて言った。
「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。
           使徒の働き4:24

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彼らは、「主よ」と声をあげて祈り始めました。
ここでは「主」と訳されることばは、デスポテースという言葉です。
この言葉は、「しもべの上に絶対的な権威を振るう君主」を表す言葉です。
ですから、しもべは、この「主」の下に完全に隷属して、
何一つ自由を持ち得ないことを意味しています。
さあ、困りましたね。
あなたは、本気で、神様に対して、「主」と告白できますか。
私達が、「主よ」と叫ぶとき、
私はあなたのしもべです、という告白が重ねられているのです。
しかし、私たちの主が暴君であるならば、
その方を主と呼ぶことは、痛みであり、苦しみです。
しかし、恵みと真実に満ちておられる方を、私たちは主と呼ぶのですから、
もっともすばらしい支配の中に生かされることになるのです。

教会はどんな場所か

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  釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、
  祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。
  これを聞いた人々はみな、心を一つにして、
  神に向かい、声を上げて言った。
           使徒の働き4:23−24

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ペテロとヨハネは仲間のところ、教会に戻りました。
教会は、彼らにとって、空気や三度の食事のように、
それなしでは生きていけぬ程、生活の一部となっていたのですね。

教会は決して「よそ行き」の場所ではないんですよ。
特別な場所ではありません。
ある人は、いやされる場所として、教会は病院のようですね、と言います。
しかし、病院であれば、健康になると退院してしまいます。
またある人は、学ぶ場所として、学校のようですね、と言います。
しかし、学校であれば、卒業してしまいます。
教会は、教会なんですね。
そこには、いやしがあり、学びがあり、
しかし、卒業する場所でも、退院し出て行ってしまう場所でもありません。
生活の一部とされるべき場所なんです。
キリストにあってひとつの大きな家族とされている場所です。

そして、教会では、いろいろなことが分かち合われていきました。
ペテロたちは、仲間が待つ教会に戻って、
逮捕から釈放にいたる経緯を残らず報告したのです。
もし、ペテロたちの報告を聞いたらあなたなら何と祈りますか。
私だったら、きっとこう祈りますね。
「主よ、これ以上迫害が強くならないように守って下さい。」
しかし、彼らは、ペテロたちの報告を聞いて、
心を一つにして祈り始めたのですが、
「迫害を遠ざけて下さい!」とは祈らなかったのです。
どのような祈りをしたのでしょう。それは次回に!

生き方があかしする

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 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、
 またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、
 ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。 
           使徒の働き4:13

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議会に引き渡されたペテロとヨハネですが、
結局ユダヤ当局者は、一つのことを知りました。
それは、「こいつらはイエスと一緒にいたのだ」ということです。 

お互いの人生を眺めていると、わかってくるものは何でしょうね。
「あなたの生き方を見ていると、
イエス様と一緒に生きているということがわかる」
と言われるような人生でありたいですね。

ペテロたちは、決してむずかしい言葉を話したわけではありません。
自分たちで見たこと、聞いたことをただ話したのです。
そして、議会の脅かしにもひるまずに、
大胆に、神様に聞き従うことを選ぶ、とはっきりと語りました。
あなたの平凡な生活から出てくる証こそ、イエス様を紹介する最高の手段です。

苦しみも喜びに

+++城山キリスト教会 2008年8月31日 礼拝メッセージより+++
 コロサイ人への手紙1:24-29 「苦しみも喜びに」

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  ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。
            コロサイ1:24
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パウロは、伝道のために行く所々で様々な困難にあいました。
この手紙を記したのも獄中でした。しかし、彼は、
自分がキリストを伝えるときに受ける苦しみは、むしろ喜びだ、と言います。
コロサイ教会の報告を聞き、手紙を書きながら、
この苦しみは自分にとっての喜びだと書いたのです。
愛に生きるとは、決して無理して、自分の力以上のことを
しようとするものではありません。
それは、重荷とはならず、愛の労苦が喜びとなっていくということなんですね。

パウロは、教会はキリストのからだなのだと教えています。
ひとりひとりが仕え合うこころをもってはじめて機能する場所なんです。
なぜなら、イエス様が、わたしが来たのは仕えるために来たのだ、
それも命を捨てるほどに、と言われたのです。
その生き方も重荷とはなりません
愛によって出発し、仕え合う場になっていくのです。

パウロは、教会に仕える者として生きることが自分の使命であり、
人生そのものだと書いています。
今日集まっている一人一人にも、神様がゆだねているつとめがあります。
あなたを通して、神の言葉を伝えるという使命です。
聖書のことばをたくわえ、そのことばに生き、
そして、分かち合っていくのです。楽しいではありませんか。

「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、
あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。
それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。」
このキリストによってひとりひとりが成長していくのです。

パウロは、最後にこう言っています。
「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、
労苦しながら奮闘しています。」
力強く働くキリストの力によって、この一週間も過ごしていけますように。

何を信じるか

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 この方以外には、だれによっても救いはありません。
 世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、
 どのような名も、人間に与えられていないからです。」
           使徒の働き4:12

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ある人はこう言います。
「あの人は、あの宗教を心から信じているのですから、
そのことを真理とすべきでしょう。
大切なのは、何を信じるかよりも、その信仰の姿なのですから。」
もっともらしい意見ですね。
しかし、そんなことを実際生活に適用している人は一人もいません。
信じるという行為自体は、それがどんなに誠実なものであっても、
強烈なものであっても、確かなものであるとはかぎらないのです。
大切なのは、「何を信じるか」なんですね。

ある看護婦さんが、新生児に真心こめて目薬を点眼しました。
しかし、それは、新生児にとっては強すぎました。
彼女がすばらしい誠実さをもっていたとしても、
その新生児が盲目になることを防げなかったのです。

薬を飲む時に「大切なのは飲むときの態度や誠実さだ。
飲む薬がどんな薬であっても構わない」なんて考えたりはしないでしょう。
問題は、「何を信じるか」という中味の問題です。

溺れている人に
「今からクロールの泳ぎ方を教えてやるから、同じように真似したまえ」
と言っても無理な話ですね。
そのうち溺れてしまうだけです。
聖書は「イエス・キリストの恵みによってあなたがたは救われるのです」
と語ります。
キリストは、溺れている人に講釈をするのでなく、救命具を投げてくださる方、
いや、自らが飛び込んで命をかけて救ってくださる方だというのです。
だから、このイエス様がもたらしてくださる救いは
イエス様以外に与えることが出来ないのです。

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